コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

愛新覚羅溥傑の住んだ家

千葉からの引っ越しが間近というときに、近くにあるゆかりの家いなげというのを訪ねてみた。前から知っていたが、いつでも行けるからと、とうとう引っ越し間際になってしまった。どういうところか知らなかった。その日は、たまたま東のほうのショッピングタウンに買い物に行こうと、久しく乗っていなかった自転車で走る。そのショッピングゾーンには大きな自転車屋さんがある。そこで抜けてきている空気を入れてもらう。ついで、ブックオフがあるので、読みたい本がないか見てみた。旅行関係の雑誌や単行本に目当ての本がない。ハードオフもくっついているので、何気なくギターの中古も見ていた。またやるのか。やめておけ。いまは楽器は近所迷惑だ。それにヘタクソだから、騒音をまき散らすなと、わたしの陰の声がする。
 スーパーで買い物。なんでも売っているホームセンターみたいなのとくっついている。そこでマイクロSDカードが安いので買う。昼飯はスーパーで好きな鯖寿司を買ってイートインでいただく。
 帰りに寄ったところが、ゆかりの家で、ゆかりって何のゆかりかと思ったら、愛新覚羅溥儀の実弟の溥傑と浩様が新婚時代を過ごした戦前に住んだ家が千葉市で保存しているのだ。清朝の最後の皇帝、ラストエンペラーの弟がいた家だった。知らなかった。それが歩いてすぐのところにあったなんて。その辺は、昔は保養地で別荘もかなりあった。稲毛の浜は、いまは埋め立てられて、海までは遠くなったが、浅間神社の境内にも松林があるし、辺りには、海辺であったと判る松が並んで、きっと昔はすぐが砂浜で、明治のころに描かれた絵を見たら、神社の鳥居が海の中に建っていて、その前の浜辺で泳ぐ人が描かれていた。
 いまの国道14号線の辺りから、海であったのだろう。なんとなく、そんな臭いのする風景を、ここに引っ越したときから感じていた。
 和風の平屋だが、庭もよく造られて、無料で中が見学できる。玄関から入ると、奥から職員さんが出てきた。きっと平日は訪問する人もあまりいないのだろう。部屋はいくつもあり、庭に出られるようにサンダルも置いてある。藤棚があり、もう藤が咲いてきていた。その下で溥傑と浩の二人が寄り添い座る写真も展示している。掛け軸から書まで資料が展示しているが、複製のようで、本物は美術館のほうにあるらしい。
 パンフレットによれば、明治21年に保養施設海気館が開館とあり、そこは島崎藤村や森鴎外、徳田秋声らが利用していたとあるが、建物はいまはなく、そこに大正2年にこの建物が建ったとある。溥傑夫婦が暮らしたのは昭和12年のこととあった。
 職員さんと少し話した。自分は青森から来たが、八戸出身の大久保某の身内が書いた新書も読んだことがあるが、天城山心中の悲恋として溥傑の長女慧生とピストル自殺したことはどうも伏せられているようだが、職員さんは知っていた。当時はマスコミでも騒いだ。19歳で亡くなるが、学習院大学生同士の結ばれぬ愛をあの世に託した。
 そういう話も思い出した。
 稲毛には見所がいろいろとあり、いなげ八景がわたしの住む周辺にある。わたしの通勤路はせんげん通り暮雪というけど、雪なんか見たことがない。稲毛公園内の松林は松林夜雨という。暗いから夜の散歩はどうか。神谷別荘秋月。そこも古い洋館で、電気ブランの洋酒を製造した神谷伝兵衛の別荘でなかなかいい。浅間神社晴嵐。初詣は近いから行ってみた。ゆかりの家夕照。今度は夕方に行ってみよう。白砂落雁。民間航空発祥の地の碑がある公園は広く、わたしの読書ベンチのあるところ。稲毛海岸帰帆。いなげの浜は帆掛け船は当然いまはもうなく、ウインドサーフィンの帆ならいっぱい見る。千歳院晩鐘。うちのすぐ裏の空海さんのお寺だが、入口にいまは牡丹が満開とお知らせがあり、入って写真も撮ってみた。
 自分の街の周辺にもいいところはいっぱいあった。それに気が付かないで、いままで一年以上も暮らしていたなんて。


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