コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

遠山慶子さんの訃報

ピアニストの遠山慶子さんが亡くなられたと、新聞に記事として載っていた。87歳と書かれていたが、一昨年前まで、わたしが働いていた、遠山さんのご自宅の南青山のマンションで毎日のようにお会いしたときは、仕事とはいえ、親切に声をかけていただき、世間話もよくしたし、わたしはクラシックファンであったので、お名前は存じ上げていたが、目の前にご本人がいると身近にいて気さくな方として話しても、どうしてもコンサートホールでグランドピアノに向かわれる偉大なピアニストという感じは受けないで、そういうお姿も想像できなかった。
 一昨年の6月から10月まで、わたしは南青山の億ションで警備会社から派遣されて、警備員として配属されたのだが、仕事は違っていた。昼はタクシーの手配から誘導、荷物のお運びなどのポーターの仕事であり、夜はマンションのコンシェルジュが帰った後、朝までずっと交代でフロントに座り、クリーニングの受け渡しから宅配便のお部屋へのお運びというコンシェルジュの仕事になる。
 そこのマンションには、商事会社の社長さんや、全国チェーンのファミレスの会長さん、国会議員や歌舞伎役者にスマップのメンバーなどが住んでいて、芸能界に疎いわたしでも、テレビで顔は見たことがあるなと、おぼろげに思いながら、荷物を部屋まで運んだりしていた。
 その中にピアニストの遠山慶子さんがいた。矍鑠たるおばあちゃんで、凛とした姿勢は、年齢は感じさせなかった。初めて配属されたときに、「もう、慣れましたか」と、わたしの顔を見るたびにわざと敬礼してみせて、お道化ていた。孫の話になると、うちも女の子ばかり五人いて、お世継ぎがいないものだからと、愚痴を言ったら、「女の子のほうが面倒見がいいのよ。安心なさい」と、そうおっしゃってくだすった。
 あるとき、手作りの蒸しケーキを持ってきてくれた。遠山さんのお手製のそれは秘伝の味だそうで、どなたかに教わったらしい。いただいたが、やはり評判通り美味しかった。遠山さんに翌日、お礼を述べたとき、「黒糖をお使いですね」と、わたしが言うと、「あら、お分かり? 喜界島の黒糖を取り寄せているのよ」と、わたしにもそこのがいいと勧めてくれた。わたしも黒糖はよく使う。砂糖はそれしか買わない。美味しいと絶賛するので、それから何度か作ってはいただいた。相方にも持って帰って食べさせたぐらいだ。
 毎週、曜日を決めて、介護士の人とお手伝いさんが通って来ていた。いくら達者とはいえ、お年もあつて、日常生活は手助けが必要のようだ。それでも演奏旅行に一週間も出たり、タクシーでお帰りのときは、疲れも見せず、歩き方もしっかりとしておいでだ。
 旦那様の音楽評論家で著書も多数の遠山一行氏が亡くなられてから5年も経っていたが、いまだに現役でコンサートを続けておられたのは、きっと病魔に捕らわれなかったら、生涯音楽家でいたのだろう。
 生きている間に、一度だけでもコンサートは聴きたかった。アルフレッド・コルトーに師事されたとあるが、コルトーといえば、わたしが子供のときに青森市民会館に演奏に来たとき、うちのケーキを楽屋まで持っていって、試食してもらったことを覚えている。
 上皇后の美智子様のご友人でもあると、仲間たちから聴いたことだが、よくお会いに出かけられたとか。
 音楽は人柄とも言われている。いまはCDからしか聴き取れないが、生の演奏を聴いてみたかった。


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