コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

肉も魚もいらない

 スーパーに買い物に寄っても、刺身や魚、精肉のコーナーは見向きもしない。わたしの好物に寿司は入るときもあるが、ステーキも焼き肉もハンバーグも入らない。肉というとかつ丼が入るぐらいだ。それも自分では作らず、外食するか弁当で買うぐらい。だから、食事にメーンがない。サラダからデザートまでと、フルコースのようだが、肉も魚料理もないのだ。
 かといって、ベジタリアンではない。出されたら食べるが、自分から進んでは食べないということだ。飛行機に乗っても、フイッシュ&ミートとCAさんに聴かれても、何が出てくるか判らないので、そういうときはベジと言えば、野菜だから安心して食べられる。チキンしかないときも、ベジと答えて逃げる。鶏肉だけはどうしても嫌いなのだ。ヘルシーでいいことは判るが、小さいころに家で養鶏をしていて、毎日のように祖母が目の前で鶏を解体するところばかり見てきて、トラウマならぬトリウマになった。
 だいぶ前に、知り合いから、肉を干したようなものをもらう。それは戻すとすっかりと肉なのだが、原料は大豆たんぱくだという。いまではあちこちで売られているが、わたしは、前々からそれが東北で売られていて、道の駅で売っていたら買ってきた。いまは海外でも人気で、ヘルシーなので、メタボの人たちに食べられているとか。
 テレビで、食糧問題を報じていた。その中で、牛肉1キロを得るために、穀物10キロが必要だという。人間だけが家畜を食べている。それで地上のカロリーを無駄に使っている。もし、肉の消費をやめて、みんな牛のように草、たとえば、アルファルファなどを食べたら、だいぶ、食糧難は救えるだろう。
 肉なんか喰わなくても死なない。明治以前は四つ足禁止で、日本人の多くは隠れて、名前を変えて食べていたが、普通には食卓に肉はなかった。海外でも、インドでは牛は食べないし、イスラムでは豚は食べない。クジラを食べる民族も世界では少ない。捕鯨禁止されて困るのが日本人といくつかの国々だ。イルカも可愛いが、三陸に旅したとき、スーパーでイルカと売っていた。いまはどうか。イルカの追い込み漁も、和歌山などであって、それが国際的に批判の的になる。
 わたしらは、クジラがあったときでも、あまり食べなかった。せいぜいが缶詰で食べた記憶よりない。だから、別になくても困らないほど、他にいくらでも食べるものはある。
 動物性たんぱく質の摂取は、これからの時代はプランクトンとか、昆虫食というもので補えば、足りるといわれているので、そっちの方へ向かってゆくのではないのか。昆虫レストランというものもいまはあり、様々な料理法も研究されている。抵抗なく食べられるかもしれない。いまでもアフリカでは蟻を食べる民族もいて、チーズみたいな味がするとか。アジアでは蝉も好物で食べている。ゴキブリもどうかと、食べた人の本を読んだが、とうとうそこまで研究が進んでいる。家畜よりはましなのだ。
 わたしが肉と魚嫌いではなく、なんとなく昔から食べなかったのは、肉は子供のときは贅沢品で、家ですき焼きをやっても、近所の肉屋から大人だけが食べる牛肉300gだけを買ってきて、子供らはその肉汁がしみったじゃがいもや板麩を入れて食べさせられた。いまなら肉じゃがではないかと思うのだが、肉なしのすき焼きを食べさせられていた。大人と子供の食べるものが違うのは、どこの家庭でもあった。いまでこそ、みんなが同じ料理を食べていて、小さいときから刺身だステーキだと子供らも食べているが、そんなものが口に入るようになるのは中学か高校生になってからだ。
 うちの親父が刺身が嫌いな人であったので、また余計に食卓に上がることもなく、親が嫌いだから、子も嫌いになる。うちの姉妹も食べない。特に姉はわたしと同じだ。宴会で刺身の小鉢は誰かにそのまま上げる。すき焼きでも、みんな肉を争って食べているが、わたしは野菜でいいので、みんなと喧嘩はしない。残った野菜でいいのだ。糸コンとネギと焼き豆腐が好きだ。それだから、ベジみたいになったのは思想的なものではなく、嗜好なのだ。いまでも食事はサラダと豆腐と納豆がメーンだ。たまにソーセージやハムも食べないといけないかと買ってくるが、半分は余して冷凍している。この一年でも魚を買ったのは数えるほどしかない。ウナギは多いが、生の魚は買わない。料理はできるが面倒くさい。肉も魚もなくてもいいとは、これからの地球にはやさしい生き方なんだろう。

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