コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

法案作成の誤記

 省庁で作成した法案の文書に誤記が多かったと、そんなニュースを見ても驚かない。みんな残業で疲れていたのだと擁護する人もいた。それはそうかもしれない。だけど、いまに始まったことではなく、たぶん、どこでもあることなのだ。それは省庁だけでなく、会社でもだろう。残業で寝不足と疲労でそういう誤記が増えたとするより、パソコンの変換ミスから来るものが多いのではないのか。わたしの書く、このブログでもきっと多くあるに違いない。毎日1時間くらいでさっさと書いて、後ほどアップするのだが、推敲は一度だけ、それもずらずらと読み返して終わり。だから、誤字脱字、変換ミスなどはいつもある。一度しか目を通さないので、ずっと後になって読み返して、いろんなミスがあるのを発見するが、放置している。一番多いのが、カナ打ち特有のものだ。ローマ字打ちでは絶対に起きないことが、カナ打ちだから起こる。それは、読点を打つときに、シフトキーをちゃんと押していないので、それが「ね」になっているのだ。それと、句点を打つときは、「る」になっているのを知らないでそのままアップしていたりする。毎度、それを発見しては直している。ちゃんとキーを押せよと自分に言い聞かせるが、それはいつものことで、直らない。
 この読点だが、最近のニュースにもあったが、わたしも気になっていた英文のコンマになっていることがある。コンマと読点は英語と日本語で違うが、平気で使われているのが誤用ではないのかと思うのだ。それが気になる人とならない人がいる。許せない人と許せる人というべきか。
 それと、問題は活字離れと言われて久しいが、大学生の半分も一冊も本を読まないという現実がある。東大の学生でも論文作成では、ネットから拝借した文章をそのままコピペしていたとか。作文すら自分でやらずに、人から借りる。そういう時代の若者たちが社会に出る。そうすれば当然のように、国語力がない。ものを考え出す力もない。なんでも情報過多のときだから、コピペで済むのだ。いま、これを書いていて、人のことは言えないが、わたしもネットは参考にはする。だけどそのままコピペはしない。読んで、自分の文に咀嚼して書く。そうでないと、いまは盗用が問題になるほどうるさくなった。別にそれがブログぐらいならいいが、それでもどこから拝借したかは書かないと。それと、本人の許可ももらわないと本当はいけないのだが、それだから、そのままコピペするのは危険なのだ。
 孫引きが多くなると、コピーのコピーで、次第に情報が曲解されてくる。多少ズレてきて、違うものとして伝わる。それが怖い。真実が見えなくなるのだ。
 漢字はわたしの年では忘れてくる。言葉も出てこない。なんだったかなと、いつも考えてばかり。書くことをしないと書けなくなる。ネットはそういうときは便利で、言葉探しには役に立つ。ただ、気をつけないといけないのが、ネットの情報はゴミが多いというのと、賞味期限が過ぎたものが多いこと。それを鵜呑みにして、借用するとまた問題になる。コピーの連鎖で、世の中はフェイクだらけになって、真実が隠れてしまう。


 ネットがなかったときは、みんなせっせと図書館通いをした。それで、調べものは書架の膨大な本の中から探した。ひとつの項目を調べるに、いろんな本を参考にした。いま、図書館に行ってみると、若者たちの姿が見えない。多くがじじばばばかりで、何か寂しい。本当に本は読まれなくなったとは、わたしは30数年、古本屋をしてきて、息子の代で古本屋も売れなくて倒産したが、書店の数と古本屋の数も減ってきていて、確かに本は売れなくなったことを痛感してきた。本を読まないと、日本人はかくも幼稚になったという本も出た。そう嘆いた文学者もいた。それが、今回の省庁の役人の頭のいい人たちで起こっていることは、ほんの一例なのだ。これからの世の中がどうなってゆくのか心配だ。

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