コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

今度は詩という老母の暇つぶし

 句集を出す段になり、もう書くこともないと、郷里の施設にいる百歳の老母は、書いたノート二冊をわたしに送らせて、それで大役を果たしたと思っていた。それまでは、書くことが生き甲斐で、コロナで面会もできず、閉じ込められていた部屋にいて、退屈で死にそうであったのが、本にしてあげるというので、俄然やる気が出てきて、どんどんと川柳を書いたのも、終わったと、まるで宿題を終えたようにほっとしていた。今度は何をしたらいいのかと、次の目標がない。そういういままでは気が張っていたのが、どっと安心した途端、病気になるか、老衰で死んだりする。まだ安心させてはいけない。それで、おふくろに電話で、次は詩集を出そうと、また宿題を出した。詩なんか書いたことも読んだこともないだろう。句集の次は詩集だと、大学ノートに一日一詩書きなさいと、この息子は先生になったつもりで、おふくろに手紙にそう書いた。
 五七五のときもただ、中身よりもそれにあえばいいと、交通安全の標語みたいに日常の言葉で書いていたが、きっと、今度も昔の人だから、詩とはなんぞやと、女学校時代に習った、定型詩を書くのだろう。それでもいいが、手紙では、定型詩にこだわらなくて、自由詩を書いたらいいと教えた。五七調や七五調を意識して、そういう型にはめた詩でなくても、好きに自由に書いていいと。ただ、そこは作文にならないよう、見た聞いた話や思い出話でも、時事ネタでもいいし、生活詩でもいいから、詩心を持って、平易な言葉よりは少しひねってと言うと、「おまえがひねろということがよく解らない」と、おふくろは言うだろう。百歳の人に、暗喩とか直喩とか、メタる方法を説いてもダメだから、あまり気難しく考えないで、いっぱい書けば、そこからまた百編の詩を選んで、今度は『百一歳百一詩』として来年本にすると、そう手紙では書いた。
 野上弥生子であったか、百歳のお祝いの席で、「最初の百年が終わりました。次の百年に向けて……」と、すごい挨拶をしたのを何かで読んで、出席者も舌を巻いたとか。そのことも手紙に書いた。
 出来不出来は百歳だから、何を書いても許される。年に免じてと、駄作でもいいではないか。書いた事実がすごいのであって、長生きしても頭はしゃんとしていて、ボケていないのがいいし、記憶力も衰えず、新しいものに挑戦する気力もすごい。そうして、またやる気を出させて、死ぬことも忘れて詩を書くという親を騙し騙し長生きさせようとするこの息子も偉い。
 詩はこうして書けとは言わないが、やさしい言葉で書くことも例を出して教えた。
 まずは、わたしの通った青森の聖マリア幼稚園に明治の末に滞在していた詩人で宣教師秘書だった山村暮鳥の有名な詩「いちめんのなのはな/いちめんのなのはな」を手紙に書いた。視覚的に訴える単純な詩の中にどきりとする美しさ。どこかに言葉を隠して、それが蝶だったらいい。
 それと、八木重吉の詩も難しい言葉はいらない。「ことば」という詩集から、「ああちゃん」というのがわたしの少年時代には好きな詩であった。キリスト教から影響されていたのは、そのころは熱心に教会に通っていたからだ。
 同じ100歳で書いたまどみちおの詩も教えてあげた。「どんな小さなものでも/みつめていると/宇宙につながっている」


 さて、百歳のおふくろからどんな詩が飛び出すか楽しみではある。シロウトだから、もの真似ではなく、独自の言葉で書いた詩がつまらないものになるか、光る言葉があるか、いま、次の目標に向かって、コロナも忘れ、死ぬのも忘れ、何より自分の年を忘れて、大学ノートに向かい、さて、今日は何を書こうかと、頭も使い、好奇心に満ちて張り切る親の姿が目に浮かぶ。さあ、次は百一歳だと、瀬戸内寂聴と同じ大正11年生まれだが、わが家の生存記録更新のこれはオリンピックなのだ。


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