コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

五七五の日記

青森のおふくろが毎日、老人施設で書いていた、本人は俳句というが、俳句でも川柳でもないような、五七五で書かれた日記と思うが、それでもそんな勉強もしたわけでもなく、教えられたこともなく、ただ、五七五にすればいいと、思いのたけを大学ノートに綴っていた。本人は駄作と判っているが、いまさら、言葉はそのままストレートに書くのではなく、ひねつてと言っても、どうすればひねられるのかと、判らないというから、そうすれば、いっぱい書いてと頼んだ。100句書けばそのうちひとつぐらいはいいのができるだろうと。本人は、それまでも句集など読んだこともないだろう。俳句と川柳の区別もつかない。実際、わたしもつかないのだが、おふくろのは、花鳥諷詠はあまりなく、人のことなので、一応、川柳句集として、出すことにはした。川柳は仲間が何人かいるから、長年やられてきた人から見たら、やはり標語みたいで、五七五にしただけの日記というのが相応しいとは思う。それでも、中には光るものもあり、百歳という女の一生を振り返ってみる一句というのも、胸に迫る。こと、わたしは一人息子だから、おふくろを一人置いて、半月ぐらい海外旅行に出たりしたときもあった。そのときの親心を書いたものもあり、悪かったなと改めて思う。


 いつから、書き始めたのだろう。親父が生きていたときから、ずっとマンションの部屋から出ない人だったので、暇つぶしに何やら書いていた。たぶん、15年くらい前からではなかったか。大学ノート二冊にびっしりと書いたものを見せてもらったことがある。あまりいいのがないので、交通安全の標語じゃないかと、もう少し言葉を選んでというが、年もあり、好きに書かせていた。別に、人に見せるものでもなし、句会に参加しているのでもなく、自分流で五七五になっていたらいいと、誰に言われることもなく、ずっと書いていたのだが、前の二冊のノートは引っ越しのどさくさでどこかに行ってしまった。いまは、ここ数年で書いたものが二冊あるだけ。その中から今回、百歳の記念に句集を出してやろうと、『百歳百句』という百ページの本を百冊印刷製本することとなった。そのノートから百句選んだのだが、シロウトだから、いいとしようと、妥協しながら選句した。
 おふくろは文学少女ではなかった。厳しい祖母に人形のように育てられ、女は新聞を読んでもいけないと、小説も昔の人だから、読むのは不良と言われたときもあった。女学校は出たが、これといって趣味もなく、青森市内の戦前のデパートのレコードと電化製品売り場に勤め、そこを辞めてからは、銀行に勤めた。祖母に反抗して家出すると、単身上京して、パーマ屋に住み込みで働いて、美容師を目指したこともあった。そういう勝気なところもあったが、いたって平凡な娘時代を過ごしていた。
 兄が二人いたが、青森中学にいて、太宰治の後輩であった兄から、俳句を教えてもらったとは聴いた。「名月や畳の上に松の影」という芭蕉の一番弟子の宝井其角の名句を出して「俳句とは、こういうふうに書くもんだ」と、まだ中学生の兄から教わったと、それはわたしが聴いた話だ。俳句をその兄が書いていたかどうかは判らない。おふくろとは仲がよかったようだが、二人の兄は、召集されて、一人は中国戦線で、もう一人はニューギニアで帰らぬ人となる。兄が書き残したものは何もないが、戦争に行くときに始末して行ったものか、それとも青森空襲でみんな焼けて残っていないのか。死んだかどうかも判らない、遺骨のない死であった。


 手紙をおふくろ宛に三日ごとに書いて出しているが、その中で、野上弥生子のことを書いた。百歳で亡くなる前に、確か記憶違いでなければ、そのお祝いの席のスピーチで、これで最初の百年が終わりました、次の百年と言ったのは、野上弥生子であったか。聴いた人はすごいと舌を巻いた。
 おふくろが80歳のときに自伝の『シアンリークイ』を出してから20年。二冊目の本が句集になろうとは、本人も息子のわたしも思ってもみなかった。書くことが好きなのは、わたしも遺伝した。親父もそうだった。それは趣味としては経費のかからない安上りな老後の暇つぶしなのだ。


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