コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

固有名詞を忘れる

 わが家の男性はボケの家系で、歴代はみんな認知症になるから、遺伝的にわたしもそうなるかもしれない。どうしたらボケないかと、普段から頭を使うために、スマホで麻雀ゲームをしたり、本を読んだり、もの書きをしたりしていて、頭を使うようにはしている。それと、毎日の行動と思考パターンが同じにならないように、変化をつける。好奇心はボケ防止になる。わたしより年下と年上の職場の同僚を見ていれば、どちらもわたしよりもの忘れが多い。60歳過ぎれば、みんなそうなるのだ。いままでの職場でもシニアが多かったが、仕事でのチョンボ、うっかりがみんな多かった。それをわたしが見つけてフォローしていた。警備の仕事では、管理している建物の施錠と解錠が重要な仕事になる。それが正面玄関のドアが夜中も開いたままと、セキュリティでは問題だ。それを夜中に巡回する隊員が発見し報告する。いまの学校も、すべての鍵をわれわれが握って、朝は解錠して回るのだが、保健室が開いてません、英語室が閉まったまま、屋上も開いていないとあちこちから苦情が殺到するようでは、大丈夫かとなる。それで、マニュアルとチェックリストを作って、それを毎日自分でチェックを入れるようにした。
 わたしの場合は、この仕事に入って一年近くなるのに、先生の顔は知っていても、名前が出てこない。半分以上の先生の名前が判らない。それは大変なことなのだ。先生が鍵を借りにくる。いちいちどこの部屋ですかと聞かないといけない。先生の顔を見ただけで、理科の先生、図工の先生と黙って鍵を出してやるのが本当だ。それがわたしにはいまだにできないで、みんなから白い目で見られる。先輩から、今朝、なになに先生が登校したかと、聴かれても、顔が一致しないので、前を通ったか判らない。職員さんや清掃、給食の人たちなど、スタッフを入れたら百人以上の人が仕事をしている。その名前もいまだに知らない。大丈夫か? と自分でも思う。わたしより5歳年上のじいさんは、わたしより後に初等部に入ってきたのに、もう先生の顔と名前は憶えていた。わたしは、自信をなくしてきた。もう認知が入ってきたのかと。
 そういえば、一年前に南青山の高級マンションのコンシェルジュやポーターで半年だけ勤めたが、そこで働く仲間たちの名前を一人として思い出せない。たった一年前のことだ。その前の銀座ビルの仲間も、隅田のビルの警備をしていたときの仲間数十人の顔は出てくるが、名前が一人も出てこないことに気が付いた。関係がなくなると、自分の中の記憶から削除されているのか。だけど、青森の文学仲間の名前は憶えているのだ。10年前のことは憶えているのに、つい去年までのことが、すっかりと消えている。何があったかは、行動と日付はこのブログを書いたりしているので、どこに行って何を食べたかという細かい部分まで憶えているのに、固有名詞が出てこないのだ。それは芸能人や文学者もそうで、そのたびにスマホのネットで調べる。作品のタイトルが出て名前が出ないので、タイトルでググる。
 こういうことが重なると、そろそろ来たかと、自分が認知なら薬もあるから、親父が飲んでいたアリセプトなどは進行を止めると、だんだんといいものが出てきているが、アルツハイマーにると、博士が愛した数式の映画も見たが、ああいうふうになりたくないと思う。自分がなくなるのは恐怖だ。一方では、そうなれば、周囲は大変だが、本人は幸せではないかと言う。何も判らないで死ぬだけなのだから。ボケ勝ちという。家族に迷惑はかけるが先にボケたが勝ちだ。
 このブログでも何度も書いたことを繰り返し書いている場合がある。知っていて書いているときは、前にも書いたがと、断り書きを入れる。判って書いているうちはいい。それが何度も繰り返されると、いよいよかと周囲は思うだろう。うちの親父がそうだった。毎日白い手帳に日記を書く習慣ができていて、ボケていたが、日記だけはつけていた。どんなことを書いているのかと読んでみると、毎日が同じことの繰り返しで、何を食べたか、いつうんこをしたかと、そこには特別なことは書かれていない。日常の書かなくてもいい細かいことまで記されていた。わたしはその手帳を大便日記と呼んでいた。それが、必ず、終わりにはありがとうよと、締めくくる。みんなに感謝しながら一日は終わるのだ。死ぬ二週間前の日記で絶筆となって、救急車で県立病院に運ばれて肺炎で亡くなったが、その最後のページは、「ありが」で終わっていた。そのことをわたしは、親父の葬儀の喪主挨拶で話した。
 わたしも親父の血を引いて、書くことが老後の仕事のようになっている。ボケないように、毎日ブログと詩をせっせと書き続けている。

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