コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

旅すれば駿河の国 1

 緊急事態宣言は延長された。本当は今日から出かけてもいいとなっていたのが、またこのアクティブじじいは旅行に行くのが後ろめたい。目覚ましを4時50分にかけておいたが、その一分前に自然と目覚めた。体内時計の不思議。千葉から総武線と中央線乗り換えて新宿に出、バスタから7時過ぎ発の静岡行の高速バスに乗る。この日は曇りの予想が朝からずっと雨だ。何か雨に好かれている。前の伊豆の二泊旅行のときも初日は雨だった。
 バスタの待合室で朝飯のパンとドリンク。ここは三か月前の12月に相方と御殿場に泊まりで行ったときに来た。あのときは、彼女は遅刻してバスは行ってしまう。事前に次の便に換えていた。いつものことでどうしてか時間にはルーズなのだ。
 昨日は早めに寝たのだが、なかなか眠れず、睡眠不足で朦朧としている。相方から夜に電話があり、明日、九州に行くのねと、そんなことを言っていた。飛行機が出ないから、急遽、静岡に行き先を変えたろうと、すっかりと忘れている。大丈夫か。一緒に行きたいのだろうが、また喧嘩になると面倒くさいので、一人旅が気楽でいい。


 バスは東名高速を走る。途中、足柄のサービスエリアで休憩。路肩に残雪があるから、ここは標高が高いのだろう。富士山は見えない。静岡も一日雨だ。ついていない。清水で一般道に降りた。そこから先はわたしは足を踏み入れたことのない未踏の領域になる。静岡は浜松には若いとき二度遊びに行ったし、伊豆はほとんど行ったが、沼津から掛川までの静岡の中央は通過するだけで、降りたことがない。どんなところか興味があるところだ。
 清水港は次郎長だ。森の石松、大政、小政、半五郎というのも子分にいたな。東宝の映画で見た石松がズタズタに切られて死ぬ場面、棺桶を担いできたのは映画だろうか。♪旅ゆけば駿河の国に茶の香りと、浪曲が出る。バスが走るところの地名でいろんなことが思い出される。清水の次郎長は、幕末に、これからは欧米との貿易をする時代になるからと英語塾を開いたと本で読んだが、先見の明があった。
 その清水を過ぎて静岡市に入る。都会という感じがする。バスで新静岡という私鉄の駅のあるところで降りた。そこからこの初日の目的地の浜岡砂丘に行こうとしたら1時間に1本もない。しかも1時間半もかかり、運賃は1600円。それだけの価値があるのか。時間潰しに、そこからすぐの駿府城の公園に行ってみる。家康の城だから広いと思ったら、そうでもない。お堀端をぐるりと歩く。工事中で門が閉鎖していたから。途中に弥次さん喜多さんの銅像がある。雨だから折り畳みの傘が邪魔でビデオもスマホのカメラも交互に撮るのが大変だ。天守閣はいまはなく、その発掘調査中で、それも公開しているのを見た。家康公の銅像に、お手植えのみかんの木がある。まさか、樹齢400年以上のみかんの木なんか聴いたことがない。きっと、何代目かだろう。それも怪しい。昼飯にはまだ早いから、向こうで食べようと、バスに乗り込む。バスは高速道路も走る特急だ。目的地は御前崎市だから、まだ市なので何かあるだろうと気楽に構えていた。乗客は少ないが、途中でみんな降りて、わたし一人になる。朝からバスの中から平塚の賃貸物件を見せてもらいたいと、不動産サイトにメールで申し込んでいたのが一件だけ返事が来る。明後日はなんとしても内見はしたい。
 バスは焼津から一般道に降りた。大井川を渡り、吉田、牧之原と通り、御前崎に入る。遠くに御前崎灯台らしきものがちらりと見えた。御前崎風力3、980ミリバールと中学生のときに天気図を書かせられた。いろんなことが思い出される。どこにも降りないで、終点のバスの浜岡営業所まで行くやつを、運転手は怪しんだろうか。こいつはどこに行くのだ。観光地でもないところに、ふらりと老年の男が一人バスに乗っている。
 着いたところで戻りのバスの時刻も見ておかないと。二時間後にある。何か市といっても、殺伐とした雰囲気の町だ。開拓村のように空き地が多く、ぽつんぽつんと建物が建ち、市役所や消防署があるのに、人が歩いていない。そこから傘をさして海へと歩き始める。砂丘はそんなに遠くない。太平洋側では一番広い砂丘という看板が出ていたが、それは間違いだ。砂丘で一番大きなのは、青森県の下北半島にある、猿ヶ森砂丘で、それは鳥取砂丘の10倍以上あるとか。近年までは自衛隊の演習地で立ち入り禁止のはずが、いまはどうしているのだろうか。宣伝不足で、観光資源が勿体ない。
 浜岡という地名からピンときたが、原発があるのだ。せっかく砂丘を見にわざわざこまで来たのに、近くに原発の煙突と建物が見えているのは興ざめだった。風力発電の風車がずらりと並んでいる。それは面白い対比だった。片や原発、片や自然エネルギーで、それが競うように並んでいる。砂丘は思ったより狭い。鳥取にも行ったが、そこのほうが広い感じはした。それと、青森の津軽半島には七里長浜がある。それと比べたら、青森のほうが長い。ここは3キロよりない。少し期待外れでがっかりとした。誰もいないと思ったら、海の中に小さな黒点があり、それが人間と解る。サーファーが二人いた。後は太平洋の荒波と、砂ばかり。海浜植物と貝殻が白い砂にアクセントをつける。こんなところに来るのはよほどの変わり者だろう。バスの時刻まで昼飯でも喰うかと、戻る。途中の土手に菜の花が咲いている。
 市役所周辺にも飲食店はない。廃墟のように閉めた店が目立つのは、このコロナで叩かれた飲食店の現在を象徴するかなしい光景だ。ここに来て昼飯も喰えない。何かないかと歩き回るが、ようやく見つけた業務スーパーで仕方なく55円のおにぎりを二個買って、バスの停留所のベンチに座って食べた。みじめな食事だった。おばさんが座っていて、掛川行のバスが来たから、乗り込もうとしたら、どっちに行くのかと聴いた。西か東かと、静岡は横に長く西か東なのだ。静岡駅のほうと応えたら、それなら掛川は戻らないといけないので、次の菊川駅行がいいと教えてくれた。おにぎりは残して、次に来たバスの中でいただく。高校生たちが乗りこんでくる。のどかな農村風景。まだ作付けは早く、梅か早咲きの桜か、赤や白を見せている。
 菊川駅で電車を待つ。そこも何もないローカル駅だ。熱海行が来る。西のほうは路線図を見たら、豊橋とある。そうか、愛知県なのだ。そこからは名鉄で名古屋に行ける。わたしは名古屋で働いた若いときは、住まいの岡崎まで名鉄の豊橋行に乗っていた。熱海からは東京方面の電車が走る。そこは中間地点なのだ。
 駅名から思い出すものがある。由比からは由比正雪だし、子供のときに少年向けの本で読んだことを。蒲原は東海道の版画で、何故か雪の風景だった。ここ静岡に雪は積もったのか。あれはやはり子供のときに東海道五十三次の切手を集めていたので、覚えたのだ。小学生のときは切手ブームで、それで国立公園や国定公園、偉人、浮世絵などを自然と覚えたものだ。田子の浦という地名からは、和歌を。田子の浦ゆの「ゆ」とは何かと、ずっと気にかかっていた。高校生のときからの疑問が、いま解けた。ネットで簡単に調べられる。経由の「ゆ」で、通るときという意味と知る。地理の勉強が、いろいろと派生するから面白い。
 沼津まで各駅停車はのんのんと走る。1時間半のそれもバスと同じく長い道のりに思えた。


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