コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

この十年

3,11から10年になると、マスコミはこぞって特集記事と番組を流すのだろう。あれから10年かと、何かもっと長かったような気がする。10年ひと昔とは言うが、あっという間ではなく、随分と長く感じられたのは、いろいろとありすぎたからだ。古本屋時代の10年はどこにも出られず、子育てと仕事で忙しく、あまり変化のない10年であったから、その長さは違う。そっちのほうが短かった。
 あのとき、3月11日のことは、わたしの前のブログ「古本屋のうたた寝」に書いた。「地震そのとき」というもので、その日は、とにかく忙しかった。午前に古本の仕入れがあり、満載の本を店で下ろしてから、マンションに走って帰る。坊さんが来ていた。親戚も集まっていた。親父が死んで二七日の法要があって、2,26事件と覚えやすい日に亡くなったから、それかに二週間目だった。わたしは汗をかいて、ふうふうと戻る。坊さんの隣に座り、仏壇に向かった。昼前だったが、食事の用意はしていなかった。お茶とお菓子だけでごまかした。みんな帰ってから、またバタバタと古本屋に戻る。息子と二人で仕入れた古本のデータをパソコンで打っていた。二人で200冊くらいのデータを打っていたときに、古本通販のお客さんから電話が入った。同時にぐらぐらと来た。地震だ。電話は埼玉の人で、本の注文だったが、「おや、地震ですね」と言った途端、電話が切れた。わたしは机の下に潜って電話をしていたが、突然の停電で電話もパソコンも切れた。息子はすでにわたしを置いて一人外に逃げていた。建物は古いので危なかった。老朽化している二階建ての昔は結婚式場であった110坪の古本倉庫にしていたが、二階の床は腐って斜めに傾いていた木造建築だ。崩れたら怖い。わたしも外に逃げた。まだ揺れている。長い。これは異常だ。いつもは数秒で終わる揺れも、何分も揺れているのは初めてだった。午後なので信号機が消えているほかは車が立ち往生していたが、電信柱も電線もずっと揺れている。不気味で、揺れがおさまったら、事務室に戻ったが、電気はつかない。外は小雪がちらついていて、3月でも寒かった。ストーブもつかないので、着こんでいたが、停電は復旧しなかった。息子のケータイはワンセグでテレビが見られる。地震のニュースを見た。津波が押し寄せている。かなりの被害が出ているようだ。と、ケータイのバッテリーがなくなり、電話もできない。それっきり情報は断絶したままだ。地震が来る前に緊急地震警報がケータイに入る。それが入ってから、わたしは指折り数える癖がついた。雷もその距離を知るために数えるが、地震は警報が入ってから4秒くらいでぐらぐらときた。地震波は1秒に100キロ走るというから、青森から400キロから500キロ離れたところが震源地だと知る。地震の揺れが南北に揺れていたので、北海道か仙台かと、南か北かとどっちだと、まだ推測でしかない。それがニュースで東北の太平洋側と知る。
 仕事にならないので、それぞれ家に帰ることにした。帰ったら、マンションにおふくろがいない。わたしの部屋は2000枚の音楽CDが崩れて散乱していた。本も倒れ、すごいことになっていた。台所もだ。隣の家がマンションの大家さんで妹たちが暮らしていた。そこに行ったら、おふくろと義兄がいた。妹も大学勤務だが帰ってきた。甥も帰ってきた。妹の家はオール電化で停電では何もできない。それでうちの部屋にみんなが移ってきた。うちはプロパンガスなので、コンロが使える。それで煮炊きができて飯が作れる。おふくろは、昔の人だから、てんぷら油の使い古しを小皿にとって、ティッシュでこよりを作り、それを芯にして燈明にした。結構明るい。その夜は、みんなで燈明で酒盛りをしたが、ムーディでよかった。


 あのとき、あなたはどこにいましたか? それからは3,11の日にどこで何をしていたか、歴史の証言者のように、挨拶代わりに、みんながそういうことを聴くようになる。青森は震度4で東京が震度5。その東京のお客さんから、後でお見舞いの電話をいただいたが、逆だろう。青森県の被害は少なかった。津波は八戸のほうで被害はあり、何十人か亡くなられたが、岩手から福島までの津波の高さはなかった。それからは新幹線も止まり、通販で古本を売っていたが、注文が入ってもひと月も発送できなかった。宅配便も止まっていた。売上は店売りをしていない倉庫販売であったので、ゼロが続いた。山口県のお客さんから、慰問箱が後で届いた。中には古書の寄付と、リポビタンDが二箱も入っていて、頑張ってくださいと激励の手紙が嬉しかった。あちこちから東北というだけで、励ましの電話やメールをいただく。ありがたかった。確かに直接の被害は少なかったが、流通が停まり、道路以外はすべて停まり、青森県も陸の孤島になる。スーパーもコンビニも棚はがらがら。おふくろと買い物に行ったら、さすが、おふくろ、米がなくてもパスタや蕎麦などの乾麺もあるだろう。と、なんだっていいと、戦時中に満州で食うや食わずで引き揚げてきた経験に比べたら、食べるものはいくらでもあると、肝っ玉が据わっていた。
 あれから10年。わたしはおふくろを施設に入れると、単身出稼ぎで東京に出てくる。小石川の2万5千円の四畳半のボロアパートを古本倉庫にして古本の隙間で寝ていた。それから相方と知り合い、同棲が始まり、生活のために仕事をしてと、海外旅行にも三か月ずつ二回行ったり、青森の息子と決別してから、帰るところもなく、流転の日々を送り、いまは相方とも別れて千葉に一人暮らしている。この10年で住まいは6回変わり、仕事は5回変わる。青森にいたときののんびりとした生活を揺り動かした地震が、わたしを弾き飛ばしたように、それからの波乱万丈な日々は老後とはいえない忙しさ。いまだにその余震は続いている。


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