コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

この一年

 この一年はコロナですべての予定が狂う。去年の2月下旬に、わたしはそれまで5
年と何か月か面倒をみてきた相方と別れて、千葉に一人引っ越した。別居という形だが、事実婚であったので、何も手続きもいらない。いままではわたしに頼っていた相方は今度は自分で働かないと食えない。家賃だって千代田区だからワンルームでも高い。それをどうして払うのか。三か月ぐらいは音信不通でいた。あるときから、ショートメールがくる。どうしているのかと、わたしも心配だった。去年の5月下旬に九段のファミレスでランチを食べながら、どういうふうになっているかと観察がてら会うことにした。相変わらず、被害妄想は治っていないで、警察にしょっちゅう行っているようだ。コロナの緊急事態宣言で、会う機会もなく、どこの家族も隔離されたように会えない。都内にいた息子二人にもずっと会えないし、青森の田舎にも帰れないでいた。
 その閉塞感を破るように、国内旅行を七回くらいした。仕事は休めてもせいぜいが3日くらいだから、二泊三日の旅行に出る。鬼怒川温泉、南総白浜温泉、道後温泉、伊東温泉に熱川温泉、御殿場に小田原と、温泉ばかり行っていた。それぐらいよりできない。やがて、Go Toトラベルも中断して、出歩かないようにと、今度は国内旅行もできない。沖縄も感染者が増えて、石垣島へ行こうと予約していたが、それもキャンセルした。このたびは、飛行機が飛ばないというので、別府と湯布院の旅もキャンセルになる。旅好きのわたしにとっては、憎むべきコロナだ。翼をもがれたような気分だ。
 それでも仕事は続けられていたのは幸いだ。コロナでも学校は別段、赤字でどうのということがない。学生たちはリモート講義でキャンパスにいないだけのこと。静かで、毎日が夏休みのようだ。ただ、付属は幼稚園から高校まで、普通に出校して授業はしているが、短縮授業やリモートで、長い春休みだった。行事はすべて中止で、みんなが楽しみにしていた運動会も、遠足も修学旅行もほとんどが中止になる。あるいは父兄のいない寂しい開催で、児童たちもいい思い出にはならない。
 今年の卒業式も静かなものだろう。入学式はどうなのか。去年と同じことにならないよう祈るばかりだ。
 若い人たちが仕事がなくて困っているときに、われわれシニアはいくらでも仕事はある。年金プラスで暮らしには困らないくらいいただいて、悪いみたいな。それでいて仕事は楽で仕方がない。ただ、やはり若いこれからの人がする仕事ではない。
 警備員にも最近は若い人たちが入ってくる。が、つまらないとすぐに辞めるので続かない。黙って突っ立っている門番など、それはやりたがらない。まだわれわれのような用務員のほうがいろいろとやることがあって、退屈はしないだろうが、これもおじいちゃんの仕事だろう。
 学校では卒業アルバムに一言書いてくださいと、お別れの言葉を代表して書かせられた。それには、「校庭の隅から孫を見送るように」と書いた。


 この異常な一年は、ほとんどの人たちにとって予定の狂うことばかりであったろう。冠婚葬祭の簡素化や取りやめで、金がかかることがなくなったのはいいが、思い出もなくなる。結婚式も葬式も延期といっても限界はある。何百万もかかっていたものが、簡素化されて、それならばとセレモニーホールも家族葬と、小さな葬式をするような宣伝をし、本来の質素な儀式に戻されたことは、何か考えさせられた。
 老母にも会えない、孫たちにも会えない、毎年帰っていた帰郷ができない。この一年の変化は、わたしの体重を増やした。コロナ太りで、それではいけないと、スポーツジムに通うようになり、ウォーキングも日課になる。何が個人に変化を求めたのか。それはストレスからの解放と、健康意識だった。旅に出るのに罪悪感があるなど、とんでもない世の中になったものだ。不要不急という言葉が呪文のように毎日聴こえてくる。
 手紙を書くようになったのも、いままではなかったことだ。生活の変化はコロナで考えようだが、いい方向に向かっているような。いままで気が付かなかったことを気づかせ、人と人の関係を考えさせた。時間の配分も変わり、人にとって最低必要なものは何だろうと、余分な贅沢がお預けという一年が、これからはまたどうなるのか、耐久生活は続きそうだ。


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