コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

息子たちは父親を理解できない

 長男から珍しく電話がきた。久しぶりだと、何かあったのかと驚く。便りのないのがいい便りで、普段はメールも電話もない息子たちだ。どうした? と聞いたら、のっけから、「お父さんはこれからどうしたいの?」と、聞いてきた。どうしたいって、いまのところは学校の仕事をしているし、来年で辞めようとは思う。それからリタイヤして、伊豆のどこかの温泉と海のある町に安いアパートを見つけて引っ越そうと思う。そこを拠点にあちこち旅行して歩く。と、この一年の予定を話した。「いま、千葉と東京と二つのマンションの契約をしているでしょう。千代田区のほうは家賃滞納していないよね。それはおれの連帯保証だから」と、それを心配している。ちゃんと自動引き落としされているよ。心配するな。言うのを忘れていたが、そこは今月の20日過ぎに退去するから。それで安心したようだ。息子には何も教えていなかったから、二つの賃貸をわたしが払っているものと思っていた。
 「おれが長男だから、そのうちお父さんを引き取らないととは思っているから。あちこち行くのもいいけど、みんな心配しているから」
 息子の気持ちも判る。父親がふらふらと、あちこち行くのが心配なのだ。そろそろ年だから、動かないで。と、そう言いたいのだ。みんなにお父さんはどうしていますかと聞かれて、さあ、いまごろはどこに行っているかと、居場所も不確かな住所不定無職の老人になると、ホームレスと変わらない。本当は、長男のところで、一緒に暮らして、孫娘の成長を見ながら、嫁さんと世間話もし、自分の好きなことをして、図書館に毎日通い、長男一家は共稼ぎで、嫁さんも歯科助手として働いているから、留守番もして、買い物に出て、晩御飯の材料を買ってくると、手料理を毎日作るだろう。掃除もまかせてくれ。主夫ではなく、テレビドラマにある家政婦のおじさんはばっちりとできる。暇なときは、近くの公園デビューして、じいさんたちとベンチで将棋でもさして、時間潰しをする。息子のマンションはベランダが広いから、そこで家庭菜園もするだろう。花から野菜から果実まで、いろんなものを作る。それが、世間一般のじじなのだ。それをわたしにやれというのか。
 わたしは息子に言った。「おまえたちの世話にはならないから、当分は海外で遊んで暮らすよ」と、引退後の生き方を説明しても、息子には理解ができない。どこのじいさんも、みんな家族と一緒に暮らすのがあたりまえで、そのほうが安心だろう。そのくせ、息子は前にわたしに言ったが、ボケたら、施設に入れるからねと。ぼけたら判らなくなるから、そうされても自分も判らないから好きにしたらいい。
 息子たち三人がいるから、誰が親の面倒をみるというのでもなく、わたしはタライに乗って、息子たちの家々を三か月ずつ回るというのはどうだろうと、前に思ったこともある。タライ回しという。ひとの家にずっと暮らせば退屈するし、わたしのことだから、やりすぎて、嫁たちに顰蹙をかうかもしれない。じっとおとなしく、お客さんのように座っている人ではない。洗濯もするが、嫁の下着を干して怒られたりする。掃除で片づけて、あれがない、これはどこに行ったと騒ぐだろう。うちの親父がそうだった。わたしの机の中まで整理整頓していた。それはいいのだが、勝手に封筒にみんな入れてしまい、どこに鍵がいったのかと探した。余計なことをしないように、一緒の生活では線引きをしなくてはいけない。
 来年は古稀だから、もう働かなくてもいい。孫の教育まで口をはさむことはないが、どこかに連れていってというと、わたしの場合はディズニーランドなんかへは連れてゆかない。どちらかというと海だ山だと、自然の多いところに行くか、歴史探訪や勉強になるところに連れてゆく。国会図書館に連れて行ったら泣くだろうな。海外に連れていって、語学の生の勉強をさせてもいい。息子は前に、子供らを海外旅行に連れて行ってと、夏休みなどいい体験をさせてやりたいと言ったことがある。嫁も長男のところは、行ったことがないので、まとめて連れてゆきたい。そういうじじにわたしはなりたい、とは思わないが、最近は、それもまたいいのかなと、ちらりと思うようになる。
 息子から電話が来たのは、相方にわたしのスマホを貸したら、そこのアドレスにある息子に勝手に電話で様子をうかがっていたことから、わたしのほうに電話が来たのだ。後で相方から聞いて知った。息子は、あの人とはどうするのさと、そうも聞いてきた。それはまだ判らないが、病気のことは知っているので、治すことが先決だからと、将来ともに面倒をみるとか、そういうことではないと告げた。人のためでなく、お父さんは自分のための老後を送ってと、息子はそう言いたかった。端から見て気をもむらしい。歯がゆいところがあるのは、親の性格をよく理解していないからだ。苦もまた楽し。前の嫁のときもそうだが、息子たちはもうやめてと、わたしの手を引っ張った。もういいだろうと。アドラー心理学ではそういうわたしのような人を承認欲求のある一種の精神的病という。いまは、のめりこんで、そこから離れられない。わたしも病気なのだ。

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