コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

母の履歴書

 親が長生きすれば、親の年も数えられない。西暦で覚えれば現代から引き算すれば一発で判るのに、元号で数えるからややこしくなる。おふくろは、大正11年の10月生まれなのだが、今年の誕生日で満の99歳になるのではないかと思っていた。その年を知るには大正が5年と、重なるので1を引いて昭和が62年分、それから平成が31年と令和が2年と、それも平成31年と令和元年が重なるから、合計で99歳という足し算なのだが、間違ってはいないだろう? 
 先日、週刊誌に瀬戸内寂聴が出ていた。新聞にも大きく載っていたが、数えで百歳だという。おふくろと同じ大正11年生まれなのだ。間違ってはいなかった。昔の人は、正月になるとひとつ年をとる。誕生日ではなく、みんながひとつ年を加える。それが数えで、満年齢よりひとつ多い。満では、生まれたばかりの子は零歳と数えるが、数えでは1歳なのだ。おふくろも数えで百歳になったのか。死んだら新聞には享年百と出る。子供のわれわれには長生きの希望が湧いてくる。親が長生きすると、子供もと同じ遺伝子を持って、病気さえしなければきっと、それ以上は生きるのだ。


 おふくろのことは、20年近く前におふくろが思い出を一冊の大学ノートに書いたのを、わたしが自伝として本にした。当時買ったばかりのノートパソコンで活字にし、版下まで作ると、友人の製本所に持ち込んで、ハードカバーの本にした。『シアンリークイ』というタイトルにしたのは、中国語でひまわりという意味で、新婚時代に満州に行って、親父と暮らしたが、親父がいつも冗談ばかり言って笑わせるおふくろを、「おまえはひまわりみたいなやつだな」と、その明るさを誉めた、その言葉をわたしが採用した。自費出版で500冊刷ったが、地元の新聞社が取材に来て、大きく夫婦の写真入りの記事で載り、出版記念会も仲間を集めてやったこともあり、書店に問い合わせが殺到したという。それであちこちの書店に残りの本を持って卸したが、あっという間に売り切れた。再販するほどのこともないと、それで終わりにしたが、その本は、おふくろが青森で生まれて、結婚して満州から昭和21年に引き揚げてきて、昭和23年に親父がシベリア抑留から帰還するところまで書いた。国会図書館には二冊送ったので、そこからは取り寄せられるが、わたしの手元には一冊もない。
 おふくろは戸籍上の名前はタヘ子なのだが、一時は妙子と漢字にしていた時期がある。六人兄弟の長女で、いまもある青森市の新城の松丘保養園の官舎で生まれた。父親は大久保巻之助という本当かどうか、男の看護師第一号と聞いた。レントゲン技師もしていて、おそらく、白血病と思うが、昭和18年の春に52歳で亡くなる。母親も保養園の看護婦をしていた。そこは東北のらい病の北部療養所と言われていて、ハンセン病患者たちの隔離病棟であった。父親はそこの中條園長と一緒にらいの研究をして、特効薬を見つけるために日夜励んでいた。
 おふくろは新城小学校に通う。当時はまだ青森市ではなく、新城村といった。青森市の西のほうにある。小学校を終えると、女学校を受けるが、市立の女学校は落ちた。いまの県立中央高校の前身だ。それで堤橋女学校に入る。兄二人は太宰治と同じ青森中学にいた。五人の子をすべて上の学校に入れさせたのは、両親が国家公務員であったからだろうか。
 女学校を出てから、デパガになり、レコードや家電を売るコーナーで販売員をした。女子の就職先としては花形のデパートだ。おろくろの若いときの写真を見たら、そんなに美人とは思えない、うちの息子なんか、新城の田舎の娘とバカにするくらいだ。それなのだが、不思議ともてた。寺町の靴屋の息子で、安藤昌益の研究もし、戦前の青森毎日にそのことを連載までしていた高城譲というペンネームは、靴屋の息子の藤井正次だった。彼はおふくろのためにハイヒールを作ってプレゼントしたが、しつこい藤井を嫌って、東京に一緒に行かないかと誘い、映画界にコネがあるから紹介すると言っていた藤井をふったのだ。そうしたら、怒った藤井は靴をデパートの売り場に投げつけて出ていったという。
 青森の南部三戸出身の横綱鏡里の見合い写真も、ある人がおふくろに目をつけて、持ってきたのも断ったという。もし一緒になっていたら、わたしも相撲取りになっていたのかも。
 デパートをやめてから、今度は銀行に勤める。菊屋デパートと板柳銀行は同じ系列で、頭取にいたくおふくろが気に入られ、周囲からは頭取のおてつき女ではないかと噂されたという。その頭取が菊池仁康で、実業家としてもすごい力のある人であったが、ロシア文学者としてのほうが当時は有名で、プーシキンやトルストイの翻訳をして、全集なども手掛けた。その文学者として青森県立文学館で回顧展をやったときに、たまたまおふくろを連れて見に行った。そうしたら、入口の写真を見て、おふくろは叫んだ。「仁康だ!」
 そのことを前にブログで書いたら、菊池さんの息子さんが横浜だったか、そちらにおられて、たまたまわたしのブログを見つけてメールをよこしたことがある。読んでいて、笑ってしまいましたと。
 親父と写真見合いして、青森のわが家で祝言をあげて、親父は満州国の営林署に勤めていたので、そっちで新婚時代を送ることになるが、わずか2年で、終戦の年に親父がふたたび召集されて、そのままソ連に終戦後捕虜としてラーゲリに連れてゆかれる。娘一人いたが赤ん坊で、それを抱いて、新京で一年暮らした。その悲惨な逃避行は『シアンリークイ』のクライマックスだ。命からがら帰国した話は、藤原ていさんの『流れる星は生きている』を読むようだ。
 帰還した親父と共働きで青森に洋菓子屋を始めたのが昭和24年だった。それからのことは、親父の評伝をわたしが書いた『ショートケーキストーリー』という本に続くのだ。
 思えば波乱万丈な一生で、まだまだ続篇も書けるほどのネタがある。気丈夫なおふくろも、とうとう百まで生きた。まだ頭ははっきりとしていて歩行器では動けるが、施設で元気に暮らしている。逢いにゆきたくても、施設では面会禁止とコロナが収束するまではダメなようだ。そのおくろに今日も手紙を出した。もう50通は超えたろう。3日に一度書いて出している。それが長生きの暇つぶしになっていればいいと、せっせとラブレターを書いている。


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