コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

おふくろ情報局

百歳になった青森の施設にいるおふくろは、いまだに頭のほうはしゃんとしてボケてはいない。それと記憶力はいまだにあって、わたしが判らないわが家の歴史を電話や手紙でおふくろに聴いている。生きているうちに生き字引に、いまのうちに聴いておこうというものだから、おふくろも、コロナで閉じ込められて暇だから、大学ノートにびっしりと、思い出したわが家のファミリーヒストリーを書き始めた。あんなことがあった、こんなこともあったと一族の証言録なのだ。それと、自分が実際に見たことだけでなく、明治2年に生まれた曽祖父から聴いた話や、親戚の高齢者から昔に聴いたことなども書き留めているらしい。おふくろが死んだら、そういう歴史がすべて知ることもなくなる。なにせ、わが家で一番の長寿記録者だからだ。それでも大正11年生まれで、瀬戸内寂聴さんと同じ年で、もはや、世の中には明治生まれはいなくなる。わたしの祖父は明治22年生まれで、石川啄木とそんなに変わらない年齢であった。文学者と比較すれば、その年が分かりやすい。
 おふくろは、前は電話魔であった。あちこちに電話をする。それで退屈しのぎにいろんな親戚からも情報を得ていた。それだから、いまは、すべての情報がおふくろに集まる。孫たちやひ孫からも電話が来るようで、親の知らないこともおばあちゃんは相談に乗ったりしていたから、知っていることがある。
 わたしも手紙を三日に一度書いて出しているから、東京の情報はおふくろに届く。娘たちは電話だが、北海道と青森と東京にいるが、話し好きなので、嫁ぎ先のいろんな話も出てくるだろう。孫ひこ子供で32人もいるが、わたしなんか自分の孫の名前も忘れるときがあるのに、全部言えるのだ。年齢も判る。わたしはいま、自分の孫がいくつになったのかなと指折り数えても不確かだ。前はおふくろは誕生日もすべて言えていた。いまはどうだろうか。
 わたしの青森の文学仲間の女史も、記憶力抜群の人がいて、みんな忘備録代わりに使っていたりした。判らないことがあれば、彼女に聴こうと、友人たちの奥様の名前から子供の名前、犬の名前まで知っているのではないか。
 そういう人は重宝がられる。おふくろもそういう意味では、わが家の情報局なのだ。判らないことはなんでも聞いたらいい。その記憶から、生まれてから学校に上がり、勤めてから結婚し、満州に行って引き揚げてきた半生を思い出してノートに書いたものを一冊の自伝にしたのが『シアンリークイ』という20年前の80歳のときに出した本で、中国語でひまわりというタイトルはわたしがつけた。親父の半生も書いたが、それも判らないところはおふくろによく聞いた。それはそれで10年前に一冊の本にまとめて『ショートケーキストーリー』というタイトルで北の街社から出した。わたしの生まれていないときや、まだ小さかったときの話はおふくろから聴いた。親父はその聴き取りのときはもうボケていたので、何がなんだか分からない。本ができあがったのは、親父の納骨のときであった。出版記念会を行ったときは、親父の遺影を持ったおふくろが壇上に立ち、親戚一同は喪服を着ていた。参加者には当日は平服でお越しくださいとお知らせしていた。


 晩年になって、おふくろの句集も出そうと、それはもう版下までできているのだが、印刷屋にデータで送るだけなのに、わたしのプリンターがずっと使っていなかったので壊れて、いま、引っ越したら新しいのを買おうと選んでいるところだ。次におふくろの本を出すのは、詩集にしているが、果たしてわたしが出した宿題で、毎日一詩書いているだろうか。それは百一歳のときに出してやろうと思う。その次に本にしたいのがファミリーヒストリーで、それもノートにいませっせと書いている最中だろう。それと別で、津軽弁もノートに書き出していた。自分が聞いた遠い昔のじじばばか使っていた津軽弁を思い出してはノートに書いている。弘前の松木さんなど津軽弁の辞書まで作成しているから、その中にはほとんどあるのだろうが、中にはないのも出てくるかもしれない。滅びゆく方言もここで長老から聞いて書き留めておくのも資料にはなるのだろう。
 そういう宿題がいっぱいあるから、おふくろは死んでもいられないくらい、いまは一人忙しい。コロナも忘れるくらい、日々、ノートに向かって海馬の奥から記憶を引き出している。


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